聴神経腫瘍とボク#8【初めてみよう!入院生活編】
お世話になっております。
だんのマンです。
前回ちん管との壮絶な死闘に終止符を打ち
ギリギリ勝利を収めただんのマン。
ゴリラをつなぎとめる鎖(管)から
解放されたいま、目の前には新しい世界が
広がっています。
第二の人生のスタートアップ。
後遺症とお近づきになって
これからの長い人生共存していくために
格闘する日々が始まります。
お見舞いに来てくれた方にアンケートを
取ったところ
①甥っ子よりも会うたびに成長していた。
②後半、だんのマンが元気すぎてなぜ入院してるんかわからんかった。
③入院中のだんのマンのお見舞いに行ってから
彼女ができて宝くじに当たって志望校に合格して、
ギャンブルでも連戦連勝です!
などの声が多数寄せられました。
雑誌の広告欄の謎のパワーストーンより
効能があると話題を呼んだ
だんのマンの入院生活を覗き見てみましょう。
一般病棟へ
ちん管との思い出が詰まった
HCU(準集中治療室)に涙の別れを告げ
一般病棟へ移りました。
40度近くの熱が引き
不快すぎる管が外れ
ようやく人間としての姿を取り戻しました。
そこで初めて、後遺症の数々を
ダイレクトに感じることになりました。
後遺症と向かい合う
聴力失調
後遺症その①聴力失調です。
右耳の聴神経が腫瘍化しており
その腫瘍(=聴神経)を取り除いたので
当然右耳の聴力はすべてなくなりました。
補聴器は眼鏡のように聞こえにくいものを
聞こえるようにするための補助具なので
ゼロの聴力には意味がありません。
無くなった手足が生えてこないのと同じで
再び右側の聴力が回復することはありません。
右耳が聞こえないことはまあいいとして(?)
無音ではなく
ずっと強い耳鳴りが右耳から発生している状態
なのです。
コイツがとてもとても厄介でした。
無音であれば、左耳から聞こえる情報に
集中すればよいのですが、
右耳から常に高音の強い耳鳴りが鳴っているので
左耳からの音を聞き取る邪魔になり
めちゃくちゃ聞こえづらいのです。
また、音の方向性がかなり音の聞き取りに
貢献しているということを
片耳になってわかりました。
両耳からの情報で、360度どの位置から
どのくらいの距離で音が発生しているかを
立体的に脳が把握してくれていたようで
片耳になると
・どの位置から発生している音か
・どの距離から発生している音か
がほとんどわかりません。
そして、これも片耳になってからわかった新事実ですが
脳はオートで雑音と大事な音を区別しており
大切な情報以外のボリュームを
勝手に落としてくれているようです。
その機能は両耳で立体的に聞こえるから働くようで
片耳になると、目の前で話している人の声と
周囲の「ざわざわ」が同じボリュームで聞こえてしまい
ものすごく聞こえづらくなります。
不便やなこれは!と感じると同時に
人体はなんてハイスペックで
ファンタスティックなんや!!と心から感じました。
顔面麻痺
その②顔面麻痺です。
尿管から解放されて、トイレの鏡を見て驚きました。
顔の右半分が全く動きません。
つねったら痛みはしっかりあります。
だけど動かない。
なんじゃこりゃ?
全力で笑おうとしても
左の口角が上がるのみで
強制的にニヒルな笑いになってしまいます。
一般病棟に移って1日目にお見舞いに来てくれた方と
撮影した写真です。
これで満面の笑みです。
*決して課長島耕作の4巻だけプレゼントされて
前後のストーリーが気になってこの表情に
なったわけではないことをここに釈明しておきます。
この半分マンの状態は
ビジュアル的な問題だけではなく
顔の右側の涙腺も頑張らなくなってるので
右目があり得ないくらい乾燥する
口が常に麻酔状態になっているので
うがいや、飲み物を飲むときに
めちゃくちゃこぼす。
と派手ではないですが
じわじわボディブローのように
不便を連れてきてくれます。
夜寝るときは目の乾燥を防ぐために
軟膏を目に塗って寝ました。
朝起きたとき軟膏を塗っていることは
大体忘れているので
し、視力が!?!?
と毎朝10秒は焦っていました。
平衡感覚障害
その③平衡感覚障害です。
言わずもがなラスボスはコイツです。
片耳になろうと、話しをする相手との
コミュニケーションはとれる。
顔が半分動かなかろうと
元からビジュアルでは売ってない。
檀野俊は笑いとスポーツ担当
小栗旬はビジュアル担当と
いつかの夢の中できっちりと
担当を分けているので安心(?)です。
ただ、世界が揺らぐコイツ(平衡感覚障害)
はなかなかどうしてやっかいでした。
まっすぐすら歩けない。
走るなんて夢のまた夢の状態です。
インターネットにも当然
10種競技への復帰リハビリは書いていない。
平衡感覚障害をどうやって克服するか
がこの入院生活の最重要課題となりました。
手術跡
その④手術跡です。
これはそんなに大した問題でも
ないのですが、頭部の手術跡を
圧迫しているバンドを傷口が完全に癒着するまで
5~7日間付けていました。
そのバンドを取ったあと
トイレの鏡で手術跡を見たときに
!?
おれだけハロウィンまだ続いてる!!?
とびっくりしました。
その画像がこちらです。
*注:すこしニガテな方も
いるかもしれません。
フランケンシュタインのような
仕上がりになっていました。
傷跡がホッチキスで留められていたので
文房具屋さんの需要はまだまだあるなぁ。。
とおもいました。
エンジョイ!入院生活
お見舞いライフ
一般病棟に移ったこの日から、
検査以外の時間は自由に院内を動けるので
お見舞いに来てくれた方々とお会いできました。
FACEBOOKなどのSNSに
入院に至る経緯や、手術を行うこと
また、手術が無事成功して
お見舞い・面会も可能になったことを
登校するとすさまじい反響があり、
みんなお見舞いに来てくれると言ってくれました。
胸がこう、ぐわっと。
ぐわ~っと熱くなりました。
東京・新宿の病院でしたが
東京在住の方や大阪から
シンガポールからも来てくれた方もいました。
もう本当にうれしくてうれしくて。
面会可能になってから25日ほど入院していたのですが
19日間、30人弱の方がお見舞いに来てくれました。
この集客率、ほとんど動物園のゴリラです。
あまりにもいろいろな人に会えて嬉しすぎるので
この時点で1年に1回くらい入院するのもアリかも?
と思い始めていました。
*もう地獄の数日間を忘れかけてます。
お見舞いに来てくれた方は
最初は僕の半分マンの顔の表情や
フランケンシュタインの傷跡
フラフラの足取りなどを見て
とても心配してくださりましたが
喋っていく中でまったく気にしない
僕の様子をみて
「お見舞いに来たけど逆に元気もらった。」
とめちゃくちゃうれしい感想を
くださる方もいっぱいいました。
愛すべき10種競技仲間が来てくれた時には
どうにか笑顔を作るために
強制スマイル
を編み出したり
大学院の悪友が来てくれた時は
浅草まで外出してきました。
顔面神経麻痺スマイルを
普及させることに成功しました。
病気をポップに捉えてくれる
仲間の存在は本当にありがたいと感じました。
こんな感じで1日の午前午後で
お見舞いの時間をコーディネイトしていました。
お見舞いのダブルブッキングをしてしまい
複数名の新しい出会いを提供してしまう
合コンのようなお見舞いになったりもしました。
1日の予定は
①検査
②お見舞い
③リハビリ(トレーニング)
④シャワーの時間
を先に決め、隙間の時間で
修士論文を執筆したり
SNSの投稿や読書に使い
本当に時間のない慌ただしい
入院生活となりました。
ありがたいことです。
シャワーは1日1回。
時間を決めて使用するので
トレーニングとセットで使わなければ
汗だくで過ごさなければなりません。
毎日シャワーの時間を生活の中心に
置いてバタバタと過ごしていました。
同じ病気の方との交流
いきなり瀕死で一般病棟に
やってきたゴリラ(だんのマン)が
数日でヨロヨロと歩き出し
毎日違う人をロビーや病室に連れてきて
わははと半分しか動かない顔で笑っている。
さらに空き時間に廊下の隅の方で
いそいそとトレーニングをしだすときたら
完全に変わったヤツとして
同じ病室の方や廊下で
すれ違う患者の方から話しかけてくれて
いろいろな話をすることができました。
過去に腫瘍を摘出し、10年たった今
また腫瘍が大きくなってしまい
二度目の摘出手術を受けるお父さんとは
手術後に
人生における優先順位がガラっと変わる話で
めちゃくちゃ盛り上がり共感し合いました。
どういうことかというと
頭蓋骨を切り、脳内を手術するため
「自分は目を閉じたらもう死ぬのかもしれない」
と可能性は低いものの心のどこかで考えるのです。
明日、いやもう何時間後には死ぬかもしない。
と思ったとき、
自分はこの人生で一体何をしたいのか。
を必死で考えます。
あれもしたい。
これもしたい。
ではなく、死が目の前に迫っているので
本当に自分がしたいことを順位づけて
考え出すのです。
その中には
誰かに迷惑をかけるかもしれないので
やめておいたほうがいいかな。
とか
これをしたいけど周りに変な目で
見られてしまうだろうしダメだな。
とかそういった外的要因は一切関係なくなります。
なぜならもうすぐ死ぬのだから。
自分が本当にしたいこと。
それが抽出されたとき
今までの人生における大切だと思っていたことは
そんなに大切じゃなかったり
ないがしろにしていたものが
実は本当に大切なものだと気づいたりします。
この経験は、僕もお父さんも共通していました。
さらに、死を間近で感じたことにより
もしかしたら明日死ぬかもしれない。と
本気で考えるようになります。
それはネガティブな意味ではなく
それならば、自分のしたいことを我慢する必要はない。
人生にはそんな時間もないことに気づきます。
相手にどう思われるか。
が気になってできなかったことも
死を目の前にすると、抵抗なく取り組むことができ
実はそれをしても相手は何も自分に対して思わないことが
わかります。
むしろ、したいことを楽しそうにしている自分のことを
助けてくれたり、楽しみながら
見守ってくれることが多いことに気づきます。
そういう考え方に同じ病室のお父さんも
なっていたようで、腫瘍がくれた共感覚に
ぼくたちは病院食のお茶でカンパイをしました。
もちろんそんな陽気なお父さんは
病棟の中でも少数派で
ネガティブな患者さんもいっぱいいました。
そんな患者さんに
「だんのくんは、そんなに若いのに、
せっかく培った運動能力を取り上げられて
耳が聞こえなくなったり麻痺が残る後遺症が
たくさんあって。。どうしてそんなに笑いながら
前に進めるの?自分は手術が怖くてたまらない。
その後の未来も後遺症のことを考えると本当に暗い。」
とお話しいただくこともありました。
そんな患者さんに僕は
「今まで積み上げてきたモノが一夜にして
ガラガラと崩れ去り、目の前には何もない。
届きそうだった目標も、はるか遠くに感じられます。
正直最初は頭を抱え、もう夢を見ない方がいいのかな。と
思ったこともありました。
手術も怖かったですが、怖いと言うと
そんな自分に飲み込まれそうな気がして
勝気な自分を演じ続けていたのかもしれません。
そんな僕がいまなんでこんなに笑いながら
ヨロヨロになってもトレーニングをしているかというと
自分の成長が心から楽しいからです。
今日できないことを工夫すると、もう明日には
できるようになっています。階段を登れるように
なっただけでめちゃくちゃうれしいです。
術前は何も感じなかったことでも
今は本当に心から成長を喜ぶことが出来ます。
大人になるにつれて、出来ることが増え
なかなかできないことに出会う機会も少なく
できないことをできるようになる経験は
本当に稀にしか訪れないようになっていました。
ただ、今は何もできない。
だからこそ、何に関しても成長を感じられる。
こんな幸せなことはないです。
いつか術前の自分を越えて
手術のおかげで成長できた。ありがとう。
と自分の脳に言うてあげるのが夢に加わりました。」
と言うと、ネガティブだった患者さんも
「ありがとう。
手術はやっぱり怖いし、自分がだんのくんのように
強くいられるかはわからないけど
自分もいつかこの病気になってよかった。と
言えるように頑張りたい。ほんとにありがとう。」
と笑顔になっていってくれました。
本当にうれしかった。
僕が自分の中の目標を達成するために
誰も通ったことのない道を切り開いていくつもりでした。
もちろん自分のために。
でもその行為で自分だけでなく
誰かを喜ばせることができる。
道を作るのはできないけど
道があるのなら前に進もうという人がいる。
そんなことを気づかせてくれました。
僕のほうこそありがとう。
まとめ
入院生活はとにかく人の心に触れることができ
ボクの精神を成長させてくれました。
また、自分の価値や自分の夢を
再設定・再確認させてくれる時間でした。
今思ってもかけがえのない1か月でした。
お見舞いに来てくれたみんな
僕と話してくれた患者さんたち
日に日にうるさくなっていくゴリラを
温かく見守ってくれた看護師さん・医師たち
この人たち全てに
「だんのと時間を過ごせてよかったわ」
と思ってもらえるような人間になるために
今も前に進んでいます。
*愚か者なのでたまに後退もします。
とにかく、病院でも学校でもどこでも
どんな空間、時間にするかは自分次第です。
また入院したいか?
と言われると
あまりのお見舞い品の量で
ぶくぶく太っていくためNOですが
人生において、ああいった時間も
大事やなぁ。
と思う手術から二年後のボクでした。
次回は猛烈なリハビリの内容について
お話しできたらと思っています。
是非チャンスがあればみなさん死を間近に感じて見てください。
ガラガラと価値観が崩れ、再構築されます。
なかなか面白い体験です。
続き